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ORIGINAL NOVEL

夜を追い越した僕らのこと

白井凪

CHAPTER 01

午前二時十三分

夏になると、僕はイヤフォンを使えなくなる。

正確には、右耳だけが使えない。

音楽を流すと、曲の隙間に潮風のような音が混じるからだ。ざあ、ざあ、と遠くで波が砕けているような音。その向こうから、今にも誰かが僕の名前を呼びそうな気がする。

イヤフォンが壊れているわけではない。

何度買い替えても、同じだった。

だからこれはきっと、僕の耳ではなく、記憶のほうが壊れている。

八月二十七日。

午前二時十三分。

僕はベッドの上で目を開けた。

開けた、というより、ずっと閉じることができずにいた。

部屋の隅で扇風機が首を振っていた。一定の間隔で風が来て、去っていく。カーテンの向こうでは、夏の夜がじっと息を潜めていた。

スマートフォンの画面には、一年前の今日に撮影した写真が表示されていた。

便利な機能だと思う。

頼んでもいないのに、忘れようとしているものを丁寧に差し出してくれる。

写真には、ラムネ瓶を掲げる女の子の手が写っていた。

顔は入っていない。

細い指と、透明な瓶。瓶の向こうで街灯が歪み、青白く滲んでいる。

僕はその写真を消せなかった。

かといって、まともに見ることもできなかった。

画面を伏せ、ベッドから起き上がった。

冷蔵庫を開けると、麦茶と、半分残ったペットボトルの水と、母が買ってきたプリンが入っていた。何か飲もうと思ったのに、どれも違う気がした。

喉が渇いているわけではなかった。

僕はたぶん、あの夜と同じものを探していた。

青い自販機の灯り。

湿ったアスファルト。

ぬるいサイダー。

そして、未来なんて知らない、と笑う声。

玄関でスニーカーを履いた。

なるべく音を立てないようにドアを開ける。

廊下の暗がりで、母の声がした。

「どこ行くの」

心臓が跳ねた。

リビングの扉が少しだけ開いていて、その隙間からテレビの光が漏れている。

「コンビニ」

「こんな時間に?」

「眠れないから」

母はしばらく黙った。

昔なら、危ないからやめなさい、と言っただろう。

けれど今は、僕が眠れない理由を知っている。

「朝までには帰りなさい」

「うん」

「連絡は見てね」

「分かった」

外に出ると、夜気が肌にまとわりついた。

生ぬるく、湿っていて、遠くに海の匂いがした。

僕はイヤフォンを右耳にだけ差し、再生ボタンを押した。

潮風みたいなノイズが、夏を連れてきた。

そして僕は、一年前と同じ国道を歩き始めた。

CHAPTER 02

七瀬透子

彼女の名前は、七瀬透子といった。

名前だけなら、透明で静かな人を想像するかもしれない。

実際の透子は、透明というより、炭酸飲料みたいな人だった。

急に現れて、勝手に弾けて、人の心をむずむずさせる。

高校二年の四月。

彼女は僕の隣の席になった。

最初に話しかけてきたのは透子だった。

「桐島くんって、いつも眠そうだね」

「眠いから」

「夜更かし?」

「まあ」

「不良だ」

「夜更かしだけで不良認定するなら、日本の高校生の半分は不良だよ」

「残り半分は?」

「授業中に寝てる」

「じゃあ全員不良じゃん」

透子は満足そうに笑った。

僕はその笑顔を見て、少しだけ困った。

可愛いと思ったからではない。

いや、可愛くなかったわけではない。

むしろ可愛かった。

けれど、それより先に、危ういと思った。

笑っている人間の顔ではなく、笑うことを決めた人間の顔に見えたからだ。

透子はよく授業を抜け出した。

保健室に行くと言って、屋上へ行く。

図書室に行くと言って、校舎裏でサイダーを飲む。

僕は何度か、彼女のそういう時間に巻き込まれた。

「桐島くん、暇?」

「授業中だよ」

「暇じゃん」

「授業中は暇とは言わない」

「じゃあ、忙しく退屈してる?」

僕は数学の教科書を閉じた。

先生が黒板に向かっている隙に、二人で教室を出た。

どうしてついていったのかは、今でもよく分からない。

当時の僕は、自分の人生に何かが起こることを、ひどく面倒に思っていた。

目立ちたくなかった。

期待されたくなかった。

誰かと特別な関係になるのも嫌だった。

何かを手に入れれば、失う可能性が生まれる。

それなら最初から何も持たないほうがいい。

僕はそんなふうに考える、感じの悪い十七歳だった。

透子は校舎裏のコンクリートに座り、購買で買ったサイダーの栓を開けた。

ぷしゅ、と小さな音がした。

「炭酸ってさ」

「うん」

「消えるために生まれてくるよね」

「哲学みたいに言うけど、ただ気が抜けるだけだよ」

「桐島くんは情緒がない」

「七瀬さんは情緒を盛りすぎ」

「透子でいいよ」

「急だな」

「隣の席なのに苗字って、距離を感じるじゃん」

「実際、距離はあるだろ」

透子はサイダーを一口飲んだ。

それから、僕に瓶を差し出した。

「縮めればいいじゃん」

「何を」

「距離」

僕は受け取らなかった。

同じ瓶に口をつけることを意識したわけではない。

たぶん、差し出されたものを受け取るのが怖かった。

透子は気にした様子もなく、もう一口飲んだ。

「桐島くんは、怖がりだね」

「何が」

「全部」

「知ったようなこと言うなよ」

少し強く言ってしまった。

透子は驚かなかった。

ただ、空を見上げた。

春の空は薄く曇っていた。

「知ってるよ」

彼女は小さく言った。

「私もそうだから」

その声だけが、サイダーの泡のように、静かに消えた。

CHAPTER 03

深夜の国道

僕らが夜中に走るようになったのは、七月の終わりだった。

夏休みに入って一週間。

僕はアルバイト先のコンビニで、深夜の品出しをしていた。

午前一時四十分。

自動ドアが開き、透子が入ってきた。

白いTシャツに黒いショートパンツ。髪は適当に結ばれ、頬が少し赤かった。

「いらっしゃいませ」

僕が言うと、透子は笑った。

「店員みたい」

「店員だよ」

「知り合いにいらっしゃいませって言われると、急に他人になった感じがする」

「店内ではお客様なので」

「じゃあ、お客様のお願い聞いてくれる?」

「内容による」

透子はレジ前の冷蔵ケースからサイダーを一本取った。

そして、カウンターに置く。

「一緒に逃げて」

僕はバーコードを読み取る手を止めた。

「どこから」

「今から決める」

「何時だと思ってるんだよ」

「一時四十二分」

「そういう意味じゃない」

「桐島くん、今日何時まで?」

「二時」

「じゃあ、十八分待つ」

透子は本当に十八分待った。

雑誌コーナーで漫画を立ち読みし、僕が廃棄の弁当を確認している間、店の外の縁石に座っていた。

アルバイトが終わると、彼女はサイダーを僕に投げてよこした。

「どこ行く?」

僕は訊いた。

「海」

「遠いよ」

「走れば近い」

「そんなわけない」

「じゃあ、自転車」

「持ってない」

「走ろう」

「話聞いてた?」

透子はすでに走り出していた。

深夜の国道沿い。

街灯の下を、白いTシャツが遠ざかっていく。

僕はしばらくその背中を見ていた。

帰ることもできた。

透子を放っておいて、自宅へ向かえばよかった。

なのに僕は、走り出した。

「待てよ!」

透子が振り返る。

「待たない!」

「海まで走る気かよ!」

「途中で疲れたら考える!」

彼女は笑っていた。

僕も、気づけば笑っていた。

夏の夜は、世界の輪郭を曖昧にする。

閉まったガソリンスタンド。

誰もいない歩道橋。

青く光る自販機。

眠った住宅街。

昼間なら見慣れた風景が、僕らのためだけに用意された舞台のように見えた。

二人とも、すぐに息が上がった。

国道沿いの自販機の前で、透子が膝に手をついた。

「無理」

「言っただろ」

「海、遠い」

「知ってた」

「タクシー乗ろう」

「金ある?」

「三百二十円」

「サイダー買ったからだろ」

「桐島くんは?」

「六百円」

「二人合わせて九百二十円」

「遠足の小学生より少ないな」

透子は自販機の前に座り込んだ。

青い光が、彼女の顔を照らしていた。

汗で前髪が額に張りついている。

僕は隣に腰を下ろした。

車が一台、低い音を立てて通り過ぎた。

そのあとには、潮風に似たノイズだけが残った。

「ねえ」

透子が言った。

「桐島くんは、将来何になるの」

「分からない」

「なりたいものは?」

「ない」

「行きたい大学は?」

「決めてない」

「好きな人は?」

「質問が急に雑だな」

「いる?」

「いない」

嘘だった。

そのとき、僕はもう透子のことが好きだった。

自覚したのは、たぶんその瞬間だった。

好きな人を訊かれて、真っ先にその人の顔が浮かんだのだから、ほかに説明のしようがない。

透子は「そっか」と言った。

少しだけ安心したようにも、残念そうにも聞こえた。

「透子は?」

僕が訊くと、彼女は自販機の光を見つめた。

「未来なんて知らない」

「答えになってない」

「将来のことも、大学のことも、好きな人のことも」

「好きな人は未来じゃないだろ」

「私にとっては未来なんだよ」

彼女は静かに笑った。

青い灯りの中で、その笑顔はひどく遠く見えた。

「未来なんて、知らない」

その言葉が、何に対する拒絶だったのか。

僕はまだ知らなかった。

CHAPTER 04

兄のこと

僕には、兄がいた。

三つ年上で、名前を航平といった。

兄は明るく、賢く、誰にでも好かれた。

僕とは正反対だった。

家族は僕らを比べなかった。

少なくとも、表向きは。

けれど僕自身が、一番比べていた。

兄なら、こんなときどうするだろう。

兄なら、もっと上手く話すだろう。

兄なら、母を困らせない。

兄なら、父を失望させない。

兄なら。

兄なら。

兄なら。

二年前の冬、兄は交通事故で死んだ。

大学からの帰り道だった。

信号を無視した車にはねられた。

即死だったと聞いた。

苦しまなかったらしい。

大人たちは、それを慰めの言葉として使った。

苦しまなかった。

眠るようだった。

きっと天国で見守っている。

僕は全部、嫌いだった。

死んだ人間が苦しまなかったから何だというのだ。

残された人間がこれだけ苦しんでいるのに。

兄の死後、家の中から音が消えた。

母は料理中に歌わなくなった。

父はリビングで野球を見なくなった。

僕はイヤフォンで音楽を聴くようになった。

家族の沈黙を、別の音で埋めた。

そして右耳には、いつからか潮風のようなノイズが混じるようになった。

透子に兄のことを話したのは、八月の初めだった。

僕らはコンビニ前の縁石に座っていた。

僕のアルバイトが終わるのを待ち、透子がサイダーを二本買った。

「お兄さん、いたんだ」

「いた」

「過去形なんだね」

「二年前に死んだ」

透子は何も言わなかった。

かわいそう、とも。

ごめん、とも。

つらかったね、とも。

ただ、サイダーの栓を開けた。

ぷしゅ、という音が、夜に弾けた。

「どうして話したの」

しばらくして、彼女が訊いた。

「知らない」

「私が聞いたから?」

「聞いてないだろ」

「じゃあ、話したかったんだ」

「そうかも」

「よかった」

「何が」

「桐島くんにも、話したいことがあったんだって分かって」

彼女は瓶を足元に置いた。

「私、聞くことしかできないけど」

「十分だよ」

「励ましたりしなくていい?」

「やめてくれ」

「お兄さんの分まで生きて、とか」

「絶対に言うな」

「時間が解決してくれる、とか」

「帰るぞ」

透子は小さく笑った。

「そういう言葉、嫌いそうだもんね」

「嫌いだよ」

「私も嫌い」

「透子も?」

「時間は解決なんてしない。慣れさせるだけ」

彼女はそう言った。

その言葉は、十七歳が口にするには、あまりに重かった。

けれど僕は、理由を訊けなかった。

透子も何かを失くしている。

それだけは分かっていた。

人は失くしたものの形に合わせて、少しずつ変形する。

表面だけでは見えなくても、心のどこかが不自然にへこんでいる。

僕と透子は、そのへこみ方が似ていた。

だから惹かれたのかもしれない。

似た傷を持つ人間同士が一緒にいれば、救われる。

そんな物語を、僕は信じていなかった。

傷ついた者同士は、互いの傷を正確に見つけてしまう。

そして時には、そこへ触れてしまう。

それでも僕は、彼女の隣にいたかった。

救われなくてもよかった。

ただ、同じ夜の中にいたかった。

CHAPTER 05

海まで

透子がいなくなると知ったのは、夏休みが終わる五日前だった。

その夜も、僕らは国道を走っていた。

目的地は海だった。

何度も途中で諦めたくせに、その日は本当に海まで行くつもりだった。

透子が珍しく自転車を二台用意していた。

一台は自分のもの。

もう一台は、近所に住む従兄のものだと言った。

「それ、勝手に借りてない?」

「ちゃんと玄関に書き置きした」

「無断借用じゃん」

「返せば借用」

「怒られたら?」

「未来の私に任せる」

午前二時。

僕らは海へ向かった。

道路の両側には、眠った街が流れていく。

信号は何度も赤になった。

車がいなくても、僕らは律儀に止まった。

透子は赤信号のたび、どうでもいい話をした。

小学生のころ、給食の牛乳を一度に三本飲んだこと。

好きなアイスは、ソーダ味の棒アイス。

猫に好かれないこと。

国語の教科書に載っている小説は、たいてい話が暗すぎること。

「教科書に載る話って、なんで誰か死んだり、いなくなったりするんだろうね」

「幸せな話だと感想文が書きにくいからじゃない」

「幸せでした、よかったです、で終わるもんね」

「悲しい話なら、命の大切さを感じました、で何とかなる」

「雑だなあ」

青信号になった。

透子がペダルを踏み込む。

僕もその背中を追った。

海に着いたのは、午前三時半を過ぎたころだった。

海岸沿いの道に入ると、潮の匂いが急に濃くなった。

防波堤の向こうから、波の音が聞こえる。

僕らは自転車を止め、階段を上った。

海は夜の底に沈んでいた。

遠くに船の灯りが見えた。

空と海の境界は曖昧で、世界の終わりのようだった。

「来たね」

透子が言った。

「来たな」

「走ってないけど」

「自転車も走るって言うだろ」

「青春っぽくない」

「夜中に高校生二人で海まで来た時点で、十分青春だよ」

「じゃあ、青春っぽいことしよう」

透子は防波堤の上に立った。

両手を口元に当て、海に向かって叫ぶ。

「未来のばかやろー!」

声は波音に飲み込まれた。

僕は呆れて笑った。

「何それ」

「桐島くんも叫んで」

「嫌だよ」

「ここまで来たんだから」

「関係ないだろ」

「じゃあ、お兄さんのばかやろーでもいいよ」

僕の表情が変わったのを見て、透子は口を閉じた。

「ごめん」

「何でそんなこと言うんだよ」

「桐島くん、怒ってると思ったから」

「兄に?」

「置いていかれたこと」

僕は何も言えなかった。

腹が立った。

勝手に心の中へ入られた気がした。

けれど、もっと腹が立ったのは、透子の言葉が正しかったからだ。

僕は兄に怒っていた。

どうして死んだんだ。

どうして僕たちを置いていった。

どうして全部、僕に残した。

悲しみも、両親の沈黙も、兄の代わりになれない自分も。

僕は防波堤の上に立った。

暗い海を見た。

そして叫んだ。

「勝手に死ぬなよ!」

声が裏返った。

「兄ちゃんのばかやろう!」

もう一度叫んだ。

「僕を置いていくな!」

喉が痛くなった。

目の奥も痛かった。

透子は隣で黙っていた。

慰めなかった。

背中をさすらなかった。

泣いていいよ、とも言わなかった。

ただ、僕が泣き終わるまで隣にいた。

しばらくして、僕らは防波堤に座った。

波がコンクリートにぶつかる音がした。

「ありがとう」

僕は言った。

「何が」

「叫ばせてくれて」

「私も叫びたかったから」

「透子は未来に怒ってるの?」

「うん」

「どうして」

彼女は膝を抱えた。

海風が髪を揺らした。

「私、引っ越すんだ」

一瞬、意味が分からなかった。

「いつ」

「来週」

「どこに」

「東京」

「急すぎるだろ」

「前から決まってた」

「聞いてない」

「言ってないから」

「どうして」

自分でも驚くほど、責めるような声が出た。

透子は海を見たまま答えた。

「母親が再婚するの」

「それで?」

「新しい家族と住む」

「転校するのか」

「うん」

「いつ戻る?」

「分からない」

「連絡は」

「できるよ」

「じゃあ、何でそんな顔するんだよ」

透子は笑っていた。

青い夜の中で、笑おうとしていた。

「連絡できるから大丈夫って、本当に思う?」

僕は答えられなかった。

学校が変わる。

住む街が変わる。

会えなくなる。

それだけだ。

死ぬわけではない。

今の時代、連絡なんていつでも取れる。

電車に乗れば会いに行ける。

そう言えばよかった。

けれど透子の横顔を見ていると、そんな言葉は全部嘘に思えた。

失うとは、存在が消えることだけではない。

同じ時間にいられなくなること。

同じ景色を見られなくなること。

知らない場所で、知らない人たちと笑うようになること。

自分の知らない彼女が増えていくこと。

それもまた、失うということだった。

「桐島くん」

透子が言った。

「この夏が終わっても、ちゃんと覚えていて」

「忘れるわけないだろ」

「人は忘れるよ」

「忘れない」

「私の声も?」

「忘れない」

「顔も?」

「忘れない」

「今、何着てるかも?」

「白いTシャツと黒いショートパンツ」

「髪型は?」

「一つに結んでる」

「今日、何飲んだ?」

「サイダー」

「昨日は?」

「ラムネ」

「一昨日は?」

「知らない」

「ほら、忘れてる」

「そういうことじゃないだろ」

透子は笑った。

今度は、本当に少しだけ笑っていた。

「じゃあ、忘れないで」

「忘れないよ」

「約束ね」

僕はうなずいた。

好きだと言おうと思った。

何度も口を開きかけた。

けれど、言えなかった。

ここで好きだと言えば、彼女を困らせる。

離れる直前に気持ちを押しつけるなんて卑怯だ。

そう考えた。

実際は、ただ怖かったのだと思う。

彼女の答えを知るのが。

だから僕は、いちばん大切な言葉を飲み込んだ。

その代わりに、どうでもいい言葉を口にした。

「朝までいよう」

透子は僕を見た。

「うん」

午前五時。

海の上に白い光が落ちた。

夜が少しずつ薄くなり、空と海の境界が戻ってくる。

僕らは黙って日の出を見た。

何かが終わる瞬間は、もっと大きな音がすると思っていた。

けれど夜は、驚くほど静かに終わった。

CHAPTER 06

忘れることと、なくすこと

透子は九月一日に転校した。

最後の日、クラスメイトたちは色紙を渡し、写真を撮った。

透子はいつも通り笑っていた。

泣く女子もいた。

男子は、東京に行っても頑張れよ、と似たようなことを言った。

僕は何も言えなかった。

放課後、昇降口で彼女に呼び止められた。

「桐島くん」

「何」

「これ」

渡されたのは、透明なガラス玉だった。

ラムネ瓶の中に入っているビー玉。

「どうしたの、これ」

「昨日、瓶を割った」

「危ないことするなよ」

「ちゃんとタオルに包んだ」

「そういう問題じゃない」

「桐島くんにあげる」

「何で」

「夏っぽいから」

僕はビー玉を掌に乗せた。

青みがかったガラスの中に、昇降口の光が閉じ込められていた。

「なくさないでね」

「透子こそ」

「私は何をなくさないの」

「僕のこと」

言ってから、恥ずかしくなった。

透子は目を丸くした。

そして笑った。

「なくさないよ」

「忘れない、じゃなくて?」

「忘れることと、なくすことは違うから」

「どう違うんだよ」

「忘れても、なくならないものがある」

「分からない」

「そのうち分かるよ」

透子は一歩近づいた。

僕らの間には、拳一つ分ほどの距離しかなかった。

柔軟剤と、サイダーのような甘い匂いがした。

「じゃあね、桐島くん」

「またな」

「うん。またね」

それが、僕が彼女と交わした最後の言葉になった。

最初のうちは連絡を取っていた。

透子から、新しい学校の写真が送られてきた。

高いビル。

混雑した駅。

小さな部屋の窓から見える夕焼け。

僕も、地元の海や、コンビニの新商品や、校舎裏の写真を送った。

電話もした。

夜中まで話した。

けれど少しずつ、返信の間隔が空いた。

透子は新しい学校で演劇部に入った。

友達ができた。

アルバイトを始めた。

忙しくなった。

僕も受験生になった。

父が倒れた。

幸い命に別状はなかったが、家の空気はまた重くなった。

メッセージを送ろうとして、やめる日が増えた。

彼女の楽しそうな生活に、自分の暗い話を持ち込みたくなかった。

透子も、何かを遠慮しているようだった。

大丈夫?

元気?

最近どう?

僕らの会話は、次第に確認作業のようになった。

そして十二月。

透子から、一通のメッセージが届いた。

――少しだけ、連絡をやめてもいい?

理由は書かれていなかった。

僕は画面を見つめた。

何度も文章を書き、消した。

嫌だ。

どうして。

僕が何かした?

会って話そう。

全部、送れなかった。

最後に打ったのは、たった三文字だった。

――分かった。

既読はついた。

それきり、彼女から連絡は来なかった。

僕からも送らなかった。

約束を守ったつもりだった。

本当は、拒絶されるのが怖かっただけだ。

春が来て、夏が来た。

僕は高校三年になった。

透子のいない教室にも慣れた。

隣の席には別の誰かが座った。

コンビニのアルバイトも続けていた。

午前二時になると、自動ドアが開く気がした。

けれど、彼女は来なかった。

あの夏から一年が過ぎるころ。

僕はようやく理解した。

忘れることと、なくすことは違う。

僕は透子との会話を少しずつ忘れていた。

何を話したか。

どんな順番で笑ったか。

何色の服を着ていたか。

声の高ささえ、曖昧になっていた。

それでも彼女は、なくならなかった。

忘れていくたびに、むしろ胸の奥の形だけが鮮明になった。

彼女がいた場所。

彼女が残した痛み。

そこだけが、ずっと消えなかった。

CHAPTER 07

一年前と同じ夜

一年前と同じ国道を、僕は一人で歩いた。

午前二時四十分。

青い自販機は、今も同じ場所にあった。

僕はサイダーを買い、あの日と同じように歩道の端に座った。

栓を開ける。

ぷしゅ、と音がした。

その音だけで、胸の奥が痛んだ。

「未来なんて知らない」

誰もいない夜に向かって、僕は言った。

返事はなかった。

当たり前だ。

僕はサイダーを飲んだ。

少しぬるく、甘かった。

ポケットからビー玉を取り出した。

高校の制服も、教科書も、昔のスマートフォンも処分したのに、この小さなガラス玉だけは捨てられなかった。

自販機の光にかざすと、青白く透けた。

そのとき、スマートフォンが震えた。

心臓が跳ねた。

透子かもしれない、と考えた自分に驚いた。

一年近く連絡を取っていないのに。

通知は、母からだった。

――朝ごはん、何か買ってきて。

僕は力が抜けて笑った。

――分かった。

返信し、スマートフォンをしまう。

そして立ち上がった。

ここから海までは、自転車なら一時間半。

走れば、たぶん三時間以上かかる。

けれど僕は走り出した。

理由は分からない。

透子に会えるわけでもない。

何かが変わるわけでもない。

ただ、じっとしていられなかった。

走って、走って、夜を追い越してしまいたかった。

失くしたものばかり数えながら大人になるのなら、せめて今だけは、馬鹿みたいに走りたかった。

息が上がる。

脚が重くなる。

汗が目に入る。

何度も歩いた。

何度も立ち止まった。

それでもまた走った。

閉店したファミリーレストラン。

無人のガソリンスタンド。

古い歩道橋。

一年前と同じ場所も、変わってしまった場所もあった。

夜は少しずつ薄くなっていた。

コンビニに立ち寄り、水を買った。

店員は僕と同じくらいの年齢の女の子だった。

眠そうな顔で、袋は要りますか、と訊いた。

いりません、と答える。

店を出ようとしたとき、背後で自動ドアが開いた。

「桐島くん?」

その声を、僕は知っていた。

忘れていたはずなのに。

振り返る。

入り口に、透子が立っていた。

髪が伸びていた。

白いワンピースを着ていた。

肩には大きなバッグをかけている。

少し痩せたように見えた。

顔つきも、どこか大人びていた。

それでも、透子だった。

「どうして」

僕は、それしか言えなかった。

透子も同じような顔をしていた。

「こっちの台詞」

「いつ戻ってきたの」

「昨日」

「何で」

「おばあちゃんの家に泊まりに来た」

「連絡は」

言いかけて、やめた。

責める権利など、僕にはなかった。

透子は少し俯いた。

「ごめん」

「謝らなくていい」

「でも」

「僕も送らなかった」

「やめてって言ったのは私だから」

「分かったって言ったのは僕だ」

店員が僕らを見ていた。

僕たちは逃げるようにコンビニを出た。

湿った風が吹いていた。

遠くで、始発電車の音が聞こえた。

「海、行くの?」

透子が訊いた。

「何で分かった」

「そっち、海しかないから」

「偏見だな」

「一人で?」

「そのつもりだった」

透子はバッグの肩紐を握った。

「一緒に行ってもいい?」

僕はすぐに答えられなかった。

会いたかった。

ずっと。

一目見れば、何を言うかも考えていた。

どうして連絡をやめたのか訊く。

僕のことを忘れたのか訊く。

あの夏の約束は何だったのか訊く。

けれど実際に透子を前にすると、言葉は全部、形を失った。

「遠いよ」

ようやく、僕は言った。

「知ってる」

「歩きだよ」

「走れば近い」

一年前と同じ言葉だった。

僕は笑った。

透子も笑った。

その笑顔は昔とは少し違っていた。

笑うことを決めた人の顔ではなかった。

泣かないことを決めた人の顔だった。

「行こう」

僕らは並んで歩き始めた。

CHAPTER 08

空白の一年

最初の十分、僕らはほとんど話さなかった。

空白の一年は、あまりに大きかった。

何から話せばいいか分からない。

元気だった、と訊くのも違う。

学校は、と訊くのも他人行儀だ。

僕は隣を歩く透子の足元を見ていた。

白いスニーカー。

靴紐の片方が少し長い。

昔から、彼女は蝶結びが下手だった。

「桐島くん、髪短くなったね」

透子が言った。

「去年、長すぎただけ」

「似合ってる」

「透子は伸びたな」

「切るタイミング逃した」

「演劇部は?」

「辞めた」

「どうして」

「いろいろ」

「そっか」

また沈黙。

聞きたいことは別にあった。

けれど口にできない。

僕たちは歩道橋を上った。

階段の途中で、透子が立ち止まる。

「やっぱり、訊かないんだね」

「何を」

「どうして連絡やめたのか」

「訊いていいの」

「訊いてほしい」

「勝手だな」

「うん」

透子は歩道橋の手すりにもたれた。

下を車が通っていく。

ヘッドライトが一瞬、彼女の顔を照らした。

「母の再婚、うまくいかなかった」

彼女は言った。

「新しい父親と?」

「それもある。母とも」

「何があったの」

「別に、大きなことじゃないよ」

そう言う人の話は、たいてい大きなことだ。

透子は続けた。

「新しい家で、私だけ余ってた。母とあの人と、二人の間に生まれた赤ちゃん。ちゃんと家族だった。私も家族のはずだったけど、どこにいればいいのか分からなかった」

「透子の家なのに」

「家って、住んでいれば家になるわけじゃないんだね」

風が吹いた。

透子の長い髪が揺れた。

「母は頑張ってた。私が寂しくならないようにしてくれた。あの人も、いい人だった。だから余計につらかった」

「いい人なのに?」

「いい人を嫌いになると、自分が悪い人みたいになるから」

僕は何も言えなかった。

「学校でも、最初はうまくいってた。演劇部も楽しかった。でも、だんだん朝起きられなくなった。夜も眠れなくなった。誰かと話すのがしんどくなった」

透子は手すりを握った。

「桐島くんからメッセージが来ると、嬉しかった。でも同時に、苦しくなった」

「どうして」

「昔の私を思い出すから」

「昔の透子?」

「夜中に走ったり、サイダー飲んだり、馬鹿なこと言ったりしてた私。桐島くんと話すと、そのころの自分が本物で、今の自分が偽物みたいに思えた」

「そんなこと」

「それに、桐島くんに会いたくなった」

僕は息を止めた。

透子は僕を見なかった。

「会いたいのに会えない。帰りたいのに帰れない。だから、全部切ったら楽になると思った」

「楽になった?」

「ならなかった」

「僕は」

声が震えた。

「僕は、捨てられたと思った」

「ごめん」

「まただ、と思った」

「また?」

「兄と同じだ」

言ってから、後悔した。

透子の顔が歪んだ。

「死んだ兄と一緒にするなよって、自分でも思う。でも、同じだった。大事な人は急にいなくなる。理由もちゃんと説明しない。こっちに何も選ばせない」

「ごめん」

「謝ってほしいんじゃない」

「じゃあ、どうしてほしい?」

「分からないよ!」

声が大きくなった。

早朝の歩道橋に、僕の声が響いた。

透子は俯いた。

僕は拳を握った。

「僕はずっと、透子のことを忘れないようにしてた。声も、顔も、言ったことも。でもどんどん忘れていって、それが怖かった」

「うん」

「なのに忘れても、いなくならない。ずっと胸の中にいる。痛いまま残ってる」

「うん」

「どうしたらよかったんだよ」

透子は顔を上げた。

目に涙が浮かんでいた。

「連絡してほしかった」

「やめてって言っただろ」

「それでも」

「そんなの分かるわけない」

「分かってる」

「ずるいよ」

「うん」

「透子は、ずるい」

「知ってる」

透子の頬を涙が伝った。

僕は初めて、彼女が泣くところを見た。

笑うことを決めた彼女も。

泣かないことを決めた彼女も。

どちらも透子だった。

僕はずっと、彼女の傷を理解したつもりでいた。

似た者同士だと思っていた。

けれど僕らは、同じ痛みを持っていたわけではない。

僕は失くしたものに怒り続けた。

透子は、自分が誰かを失望させることを恐れ続けた。

僕は残された。

透子は、自分から消えた。

似ているようで、全然違った。

「ねえ、桐島くん」

「何」

「私ね」

透子は涙を拭った。

「桐島くんのことが好きだった」

過去形だった。

胸を刺されたような痛みが走った。

「だった?」

意地悪な訊き方をした。

透子は少し笑った。

「今も好きって言ったら、困る?」

「困る」

「そっか」

「一年も連絡を断った人に急に言われたら、困るに決まってる」

「うん」

「僕だって、透子のことが好きだった」

「だった?」

同じように訊き返された。

僕は答えなかった。

歩道橋の向こうで、空が青くなり始めていた。

夜が終わろうとしている。

「海に行こう」

僕は言った。

「うん」

「着くころには朝だ」

「夜明けを奪いに行くんでしょ」

「何それ」

「青春っぽい台詞」

「透子は情緒を盛りすぎ」

「桐島くんは情緒がない」

僕らは笑った。

一年分の空白は埋まらなかった。

埋めなくてもいいのかもしれない。

空白は空白のまま、僕らの間にあった。

それでも、並んで歩くことはできた。

CHAPTER 09

夜の向こうへ

海に着いたころには、午前五時を過ぎていた。

一年前と同じ防波堤。

同じ波音。

けれど空の色は、あの日より少し明るかった。

僕らは並んで座った。

透子がバッグからラムネを二本取り出した。

「何で持ってるんだよ」

「おばあちゃんの家の近くで買った」

「僕に会う予定だった?」

「会えたらいいなとは思ってた」

「連絡すればよかっただろ」

「怖かった」

「透子も怖がりだな」

「知ってる」

ビー玉が瓶の中で鳴った。

僕らはラムネを飲んだ。

瓶越しに見る街灯は、昔と同じように滲んでいた。

「桐島くん、卒業したらどうするの」

「県外の大学に行く」

「決まったんだ」

「うん」

「何を勉強するの」

「文学」

透子が吹き出した。

「情緒ないのに?」

「うるさい」

「小説家になる?」

「ならない」

「じゃあ何になるの」

「未来なんて知らない」

僕が言うと、透子は目を細めた。

「それ、私の台詞」

「借りた」

「返して」

「未来の僕に任せる」

透子は笑った。

朝の光の中で見る彼女の笑顔は、もう青くなかった。

「私はね、こっちに戻ろうと思ってる」

「こっちに?」

「おばあちゃんの家から学校に通えないか、相談してる」

「東京の学校は?」

「転校するかもしれない」

「演劇は?」

「またやりたい」

「そっか」

「反応薄いね」

「喜んでいいのか分からない」

「どうして」

「僕は春に出ていくから」

透子は「あ」と言った。

僕らは顔を見合わせた。

それから同時に笑った。

ようやく同じ街に戻ってくるのに、今度は僕がいなくなる。

僕らは、どうしてこんなに間が悪いのだろう。

「会えないね」

透子が言った。

「電車に乗れば会える」

「連絡もできる?」

「今の時代、いつでも」

「それ、信じてる?」

「信じてない」

「私も」

海に光が落ちていく。

真っ白な朝日が、波の上で揺れていた。

綺麗だった。

綺麗すぎて、苦しかった。

「今度は、ちゃんとする」

透子が言った。

「何を」

「消えたくなったら、消えたいって言う」

「言われた僕はどうすればいい」

「引き止めて」

「やめてって言われても?」

「それでも」

「ずるいな」

「うん」

「僕も、ちゃんと言う」

「何を?」

僕はラムネ瓶を置いた。

逃げ道を探すように海を見た。

一年前、言えなかった言葉。

言わないことが優しさだと思っていた。

けれど、言葉にしなければ、なかったことと同じになる感情もある。

「好きだよ」

透子が黙った。

波の音がした。

遠くで海鳥が鳴いた。

「今も?」

透子が訊いた。

「今も」

「一年も会ってなかったのに?」

「会ってなくても」

「私、勝手に消えたよ」

「知ってる」

「面倒だよ」

「知ってる」

「また逃げるかもしれない」

「そのときは追いかける」

「走って?」

「電車で」

透子は泣きながら笑った。

「情緒ないなあ」

「現実的なんだよ」

「私も好き」

今度は過去形ではなかった。

僕は彼女の手に触れた。

指先だけ。

透子は逃げなかった。

手を重ねることもしなかった。

ただ、触れたままでいた。

それで十分だった。

恋が始まる瞬間というものを、僕はもっと劇的なものだと思っていた。

抱きしめたり。

口づけたり。

音楽が流れたり。

世界が変わったり。

実際には、何も変わらなかった。

波は寄せては返した。

空は明るくなった。

街では、人々がいつもの朝を始めている。

僕らも傷ついたままだった。

兄は戻らない。

透子の失った一年も戻らない。

家族のことも、未来のことも、何一つ解決していない。

それでも僕は、その不完全さのまま生きていける気がした。

傷がなくならなくても。

忘れてしまうことが増えても。

誰かと一緒に、次の朝を見ることはできる。

「ねえ」

透子が言った。

「帰り、どうする?」

「歩く」

「無理」

「じゃあ電車」

「お金ある?」

僕は財布を確認した。

七百六十円。

透子は五百円玉を一枚持っていた。

「二人合わせて千二百六十円」

「一年前より増えた」

「成長したね」

「交通費で成長を測るなよ」

始発駅まで歩くことにした。

防波堤を降りる前に、僕は海を振り返った。

あの夏の夜が、そこに残っている気がした。

自転車でここまで来た僕ら。

未来を知らなかった僕ら。

好きだと言えなかった僕。

いなくなることを決めていた透子。

もう戻ることはできない。

戻らなくていいのだと思う。

青春は、サイダーの泡みたいに消えていく。

どれだけ瓶を振っても、同じ泡は二度と戻らない。

けれど、甘さは残る。

舌の上に。

喉の奥に。

記憶の中に。

僕らは防波堤を降り、駅へ向かって歩き始めた。

東の空から、朝が広がっていく。

「走る?」

透子が訊いた。

「疲れた」

「夜、追い越せなかったね」

「もう朝だから、追い越したことにしよう」

「ずるい」

「透子に言われたくない」

彼女は笑った。

その声が、胸の奥で鳴った。

今度こそ、忘れないと思った。

けれどきっと、僕は忘れる。

声の高さも。

笑うときの息遣いも。

白いワンピースの裾が風に揺れたことも。

少しずつ、忘れていく。

それでいい。

忘れることと、なくすことは違う。

忘れてしまっても、僕らがあの夜を走ったことはなくならない。

海へ向かったこと。

朝を見たこと。

傷ついたまま、互いを好きになったこと。

そのすべてが、これからの僕らのどこかに残る。

始発電車の音が、遠くから聞こえた。

夏を連れ去る音ではなかった。

新しい季節へ、僕らを運ぶ音だった。

僕は透子の手を取った。

今度は指先ではなく、きちんと。

「行こう」

透子が握り返す。

「うん」

僕らは走り出した。

朝へ向かって。

もう二度と戻れない、夜の向こうへ。

END

夜の向こうへ。

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