← 特設サイトへあの夏を疑えなかった白井 凪

A SUMMER WE NEVER DOUBTED

あの夏を疑えなかった

小説 白井 凪

CHAPTER 01

記憶の夏

海の匂いを嗅ぐと、私は一人の男の子を思い出す。

名前より先に、肩の形を思い出す。

日に焼けた首筋。濡れた髪。サンダルを引きずって歩く音。笑うとき、ほんの少しだけ右側が上がる口元。

十五年も前のことなのに、そういう必要のない部分だけが、妙に鮮明に残っている。

反対に、私たちが何を話していたのかは、ほとんど覚えていない。

好きな食べ物について話した気もする。

島から出たら何をしたいかと訊かれた気もする。

私が東京の大学について説明すると、彼は分かったような顔で頷いたけれど、たぶん半分も理解していなかった。

もしかすると、そんな会話はしていないのかもしれない。

記憶というものは、古くなるほど正確になるのではなく、物語になる。

あの人はこんなことを言った。

私はあのとき、こう感じた。

そうやって何度も思い返しているうちに、本当に起きたことと、自分がそうであってほしいと願ったことの境目がなくなる。

それでも、夕日の色だけは間違っていないと思う。

あの島の八月は、世界のすべてを橙色に染めた。

海も、道路も、防波堤も。

私たちの影さえも。

「篠原さん、聞いてますか」

名前を呼ばれ、私は顔を上げた。

会議室の大型モニターには、次の四半期の販売計画が映されていた。

後輩の高橋が、マウスを持ったまま困った顔をしている。

「あ、ごめん。聞いてる」

「どこまで聞いてました?」

「新規顧客の獲得単価が、想定より上がってるところ」

「それ、五分前です」

隣に座っていた同僚が小さく笑った。

私は謝り、手元の資料に視線を落とした。

紙の端が、冷房の風でわずかに揺れていた。

モニターの隅には、八月二日と表示されていた。

東京では、朝から三十五度を超えていた。

昼休み、会社の一階にあるコンビニへ行くと、入口近くの棚に花火が並べられていた。子ども向けの小さなセットと、線香花火だけが入った細長い袋。

隣の冷蔵棚には冷やし中華と、塩分補給をうたう飲料が並んでいる。

毎年同じものを見ているはずなのに、その日はなぜか、夏が始まったのだと思った。

スマートフォンが震えた。

母からだった。

――おばあちゃんの家、売ることにしました。

続けて、もう一通届いた。

――今月中に片付けたいから、一度帰ってきてくれない?

私は店内の冷房の中で、しばらく動けなかった。

おばあちゃんは三年前に亡くなった。

島の家には、それ以来誰も住んでいない。

母は何度も家を処分したいと言っていたけれど、私が曖昧な返事を続けたせいで、そのままになっていた。

古い木造の家。

風の強い日には窓が鳴り、台風が来れば雨漏りがした。庭には名前の分からない木が生え、夏になると大きな蜘蛛が軒下に巣を作った。

守るほど価値のある家ではない。

分かっていた。

それでも私は、返信を打てなかった。

冷蔵棚のガラスに、自分の顔が映っていた。

三十二歳の顔だった。

目の下に薄い隈があり、口紅は昼前にはほとんど落ちている。

その向こうで、色鮮やかなサイダーの瓶が並んでいた。

私は一本手に取り、レジへ持っていった。

瓶の中のビー玉が、かすかに鳴った。

その音を聞いた瞬間、十五年前の夏が、突然、私の中で息を吹き返した。

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CHAPTER 02

島へ

高校二年の夏、私は島のおばあちゃんの家に預けられた。

預けられた、という言い方は正確ではない。

母は「少し環境を変えたほうがいい」と言った。

父は「受験前に休めるのは今年だけだ」と言った。

私は何も言わなかった。

あの頃の私は、学校へ行けなくなっていた。

いじめられていたわけではない。

友達がいなかったわけでもない。

むしろ私は、表面上はうまくやっていた。

誰とでも話した。

頼まれればノートを貸した。

文化祭の準備にも参加した。

教室で笑っていた。

ただ、朝になると身体が動かなくなった。

制服に着替えて、鞄を持ち、玄関まで行く。

そこから先へ進めない。

母に理由を訊かれても、自分でも分からなかった。

学校が嫌いなのか。

友達が嫌いなのか。

自分が嫌いなのか。

どれも少しずつ正しく、どれも完全には違った。

病院では、疲れているのでしょうと言われた。

しばらく休みましょう。

そう言われて、私は島へ送られた。

島には信号が一つしかなかった。

コンビニはなく、スーパーは午後七時に閉まった。

スマートフォンの電波は場所によって弱く、夜になると虫の声しか聞こえなかった。

おばあちゃんの家には冷房が一台しかなく、私の寝る部屋には古い扇風機が置かれていた。

島に着いた日の夜、私は東京の友人たちから届いたメッセージを眺めていた。

――大丈夫?

――いつ戻ってくるの?

――先生、心配してたよ。

――海の写真送って。

優しい言葉ばかりだった。

それなのに、返信を考えるだけで疲れた。

大丈夫だよ、と書けば嘘になる。

大丈夫じゃない、と書けば説明を求められる。

いつ戻るかは自分でも知らない。

心配させてごめん、と送るのも違う気がした。

私は結局、スマートフォンの電源を切った。

翌朝、蝉の声で目を覚ました。

おばあちゃんは台所で味噌汁を作っていた。

「眠れた?」

「まあまあ」

「若いのに、元気のない返事だね」

「若いのと元気は関係ないよ」

「関係ある。若い人は、意味もなく元気でいなきゃ」

「無茶言うなあ」

おばあちゃんは笑った。

朝食のあと、買い物を頼まれた。

島の反対側にある商店まで、自転車で行けという。

「遠い?」

「若い人には近い」

「基準が雑すぎる」

渡された古い自転車は、ブレーキを握るたびに甲高い音を立てた。

私は麦わら帽子を被り、坂道を下った。

島の道路は、海に沿って細く伸びていた。

片側には山。

反対側には、防波堤の向こうに青い海。

太陽は強かったが、風は東京より乾いていた。

商店で、豆腐と醤油と洗剤を買った。

帰り道、自動販売機の前で休んでいると、男の子に声をかけられた。

「それ、お花さんの自転車?」

おばあちゃんの名前は花子だった。

島の人たちは、おばあちゃんを「お花さん」と呼んでいた。

振り返ると、白いTシャツに紺色のハーフパンツを穿いた男の子が立っていた。

髪は海水で濡れているように見えた。

足元には、魚を入れる青いバケツがあった。

「孫です」

「知ってる」

「じゃあ訊かなくてよくない?」

「話しかける理由がいるかと思って」

彼は真面目な顔で言った。

私は少しだけ笑った。

人と話して笑ったのは、久しぶりだった。

「東京から来た人でしょ」

「そう」

「どれくらいいるの」

「夏休みが終わるまで」

「長いね」

「そうかな」

「島に一か月もいたら、やることなくなるよ」

「もうない」

彼は声を出して笑った。

「俺、海斗」

「名前からして島の人だね」

「よく言われる」

「私は美波」

言ってから、私の名前も十分に海っぽいと気づいた。

彼も同じことを思ったらしい。

「そっちもじゃん」

私たちはまた笑った。

その笑い声の向こうで、波の音がした。

それが海斗との最初の会話だった。

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CHAPTER 03

海斗

海斗は、私より一つ年上だった。

島の高校へは進まず、中学を卒業してから父親の漁を手伝っていると言った。

「高校、行きたくなかったの?」

二度目に会ったとき、私は訊いた。

「別に」

「別にって何」

「勉強好きじゃないし、船に乗るほうが面白いから」

「将来どうするの」

「漁師」

迷いのない答えだった。

私にはそれが不思議だった。

東京では、誰もが将来について迷っていた。

大学へ行くのか。

何学部を選ぶのか。

就職に有利か。

その仕事で生活できるか。

好きなことを仕事にすべきか。

安定を選ぶべきか。

進路希望調査の紙を前に、私たちはまだ見たこともない人生の正解を選ばされていた。

けれど海斗は、海を見ながら、当たり前のことのように漁師になると言った。

「怖くないの?」

「何が?」

「ずっと島にいること」

彼は首を傾げた。

「美波は、ずっと東京にいるの怖くない?」

言い返せなかった。

私たちは毎日のように会うようになった。

約束をすることは少なかった。

昼食を食べ終えて外へ出ると、海斗が家の前にいる。

あるいは私が防波堤へ行くと、彼が釣りをしている。

会いたいと思えば、会いに行けばよかった。

島は狭く、探す場所も限られていた。

港。

商店。

神社の階段。

古い小学校の裏。

海沿いの自動販売機。

見つからなければ、その日は会えない。

それだけだった。

連絡先は交換しなかった。

海斗はスマートフォンを持っていなかった。

家に固定電話があると言ったが、電話番号を聞く理由もなかった。

翌日になれば、またどこかで会えると思っていた。

今の私なら、不安になるだろう。

会いたいと言うのは自分ばかりではないか。

昨日の会話で嫌われなかったか。

彼はほかの誰かにも同じように優しいのではないか。

自分たちはどんな関係なのか。

そういうことを確認するために、何度も画面を見るだろう。

けれどあの夏の私は、考えなかった。

海斗が笑えば、嬉しかった。

会えれば、その日がよい日になった。

それだけで十分だった。

海斗は島のさまざまな場所へ私を連れていった。

満潮になると道が消える小さな浜。

廃校の屋上。

山の中にある湧き水。

港から見えない入り江。

「ここ、観光客は知らない」

そう言われるたび、私は自分だけが特別な場所へ招かれたような気がした。

「誰にも教えないで」

「東京の人に教えても、来ないと思う」

「じゃあ、東京の友達連れてくれば」

「友達、いないかも」

何気なく言った。

海斗は笑わなかった。

「いないの?」

「いるけど」

「どっち」

「いるけど、会いたくない」

「嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ、会えばいいのに」

あまりにも簡単に言うので、腹が立った。

「そういう単純な話じゃないんだよ」

「人に会うのって、そんな複雑?」

「海斗には分からない」

「そうかも」

彼は素直に認めた。

私はさらに腹が立った。

否定してほしかったのかもしれない。

分かるよ、と言ってほしかった。

「帰る」

私が立ち上がると、海斗は驚いた。

「もう?」

「うん」

「怒った?」

「怒ってない」

「怒ってる人、みんなそう言う」

「じゃあ怒ってる」

「何で?」

「分からないならいい」

私は浜を離れた。

後ろから、海斗の声がした。

「美波」

振り返らなかった。

「明日も来る?」

私は歩いたまま答えた。

「知らない」

本当は、次の日の昼には同じ浜へ向かっていた。

海斗は先に来ていた。

岩の上に座り、サイダーを二本持っていた。

私を見ると、一本を差し出した。

「昨日、ごめん」

「何が悪かったか分かってる?」

「分かってない」

「正直だね」

「でも、美波が嫌だったなら、謝る」

今なら、その謝り方に腹を立てるかもしれない。

何が悪かったか理解せずに謝るなんて、と。

けれど当時の私は、差し出されたサイダーを受け取った。

「私もごめん」

「何で?」

「怒ったから」

「怒るのは悪くないだろ」

彼は瓶の栓を押し込んだ。

ビー玉が落ち、炭酸が溢れた。

海斗は慌てて口をつけた。

私は笑った。

「下手」

「美波もやってみろよ」

私の瓶も、同じように泡が溢れた。

二人で笑いながら、手についた甘い液体を海水で洗った。

それで仲直りは終わった。

原因を分析することも。

今後の関係について話し合うこともなかった。

私たちはただ、また隣に座った。

あの頃、人を許すことは、今よりずっと簡単だった。

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CHAPTER 04

夏祭り

八月の半ば、島で祭りがあった。

神社の石段に提灯が並び、港では屋台が出た。

島の住民より、帰省した家族や観光客のほうが多いように見えた。

おばあちゃんは私に浴衣を着せた。

紺色の生地に、小さな白い朝顔が描かれていた。

「苦しい」

「若い人は我慢」

「またそれ」

「綺麗だよ」

鏡の中の私は、自分ではないように見えた。

髪を上げ、薄く口紅を塗った。

東京にいたときは、毎朝鏡を見ていた。

前髪がおかしくないか。

肌が荒れていないか。

友人と比べて変ではないか。

けれど島へ来てから、ほとんど鏡を見なくなった。

鏡の中より、海や空を見ている時間のほうが長かった。

港で海斗を探した。

探している自分を恥ずかしいとは思わなかった。

会いたいのだから、探す。

ただそれだけだった。

海斗は焼きそばの屋台を手伝っていた。

私に気づくと、持っていたトングを落としそうになった。

「何」

私が訊くと、海斗は首を振った。

「別に」

「変?」

「違う」

「じゃあ何」

彼はしばらく黙った。

屋台の明かりが、彼の顔を赤く照らしていた。

「すごくいい」

それだけ言って、客に呼ばれ、奥へ戻った。

私はしばらく、その場から動けなかった。

すごくいい。

褒め言葉としては、ずいぶん不器用だった。

もっと上手な言葉を私は知っていた。

似合っている。

綺麗だ。

普段と雰囲気が違う。

けれど、どんな言葉よりも、海斗の「すごくいい」が嬉しかった。

言葉の裏を探さなかった。

社交辞令かもしれないとも思わなかった。

彼がそう思ったから、そう言った。

私はそのまま受け取った。

祭りの終わりに花火が上がった。

海斗は仕事を抜け出し、私を港の外れへ連れていった。

「ここ、人いないから」

防波堤に座ると、花火は少し遠くに見えた。

音も、遅れて届いた。

「近くで見たほうが綺麗じゃない?」

「人が多い」

「海斗、人混み嫌い?」

「美波と二人のほうがいい」

彼は海を見たまま言った。

私の心臓が大きく鳴った。

聞き間違いかもしれない。

別の意味かもしれない。

そう考える前に、私は言った。

「私も」

海斗がこちらを向いた。

「何が?」

「二人のほうがいい」

次の花火が上がった。

白い光が海斗の横顔を照らした。

彼は何か言おうとして、やめた。

私も何も言わなかった。

肩が触れそうな距離にいた。

少し動けば触れた。

けれど動けなかった。

海斗の手が、防波堤の上に置かれていた。

私は自分の手を、そのすぐ近くに置いた。

指先と指先の間には、数センチの隙間があった。

花火が消えるたび、辺りは暗くなった。

その暗闇の中で、少しずつ距離が縮まった。

最初に触れたのは、小指だった。

どちらが動いたのか、覚えていない。

海斗の小指が、私の小指に重なった。

私は逃げなかった。

彼も離れなかった。

手をつないだわけではない。

ただ、小指同士が触れていた。

それだけなのに、身体中がそこへ集まったように感じた。

「美波」

「うん」

「東京、戻るの?」

「夏休みが終わったら」

「そっか」

「うん」

「戻りたい?」

分からなかった。

島へ来たばかりのころは、早く帰りたかった。

何もない島が嫌だった。

おばあちゃんの古い家も。

虫の声も。

電波の弱さも。

けれど今は、東京へ戻ることを考えると、胸の奥が冷たくなった。

海斗がいない街へ戻る。

翌日、会いたいと思っても会えない場所へ。

「戻らなきゃいけないから」

私は答えた。

「戻りたいかって聞いた」

海斗はときどき、言葉をそのまま受け取った。

私が別の答えへ逃げることを許さなかった。

「分からない」

「俺は、戻ってほしくない」

花火の音が、海の上を震わせた。

私は海斗を見た。

彼も私を見ていた。

「何で?」

分かっているのに訊いた。

海斗は困ったように笑った。

「分からない?」

「言って」

今なら、そんなふうに頼めないかもしれない。

相手を追い詰めていると思う。

重いと思われるかもしれないと恐れる。

答えに困る質問はしない。

けれど私は、聞きたかった。

だから言って、と頼んだ。

「好きだから」

海斗は言った。

飾りのない、短い言葉だった。

驚くほどまっすぐに、私の中へ入ってきた。

私は疑わなかった。

いつから。

どういう意味で。

私の何が好きなのか。

一時的な気持ちではないか。

そういう質問は浮かばなかった。

「私も好き」

私も答えた。

好きだと思ったから、好きだと言った。

それでよかった。

最後の花火が上がった。

空いっぱいに光が広がり、海面に砕けた。

海斗は私の手を握った。

今度は小指だけではなかった。

指と指を絡め、強く握った。

夏が終わることを、私はそのとき初めて恐れた。

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CHAPTER 05

冬の約束

恋人になったからといって、何かが大きく変わったわけではなかった。

私たちは、それまでと同じように島を歩いた。

海で泳ぎ、自動販売機で飲み物を買った。

日陰のない防波堤で、漁船が戻るのを眺めた。

違ったのは、時々手をつなぐようになったこと。

別れるときに、翌日も会おうと言うようになったこと。

そして私は、夏休みの残り日数を数えるようになった。

あと十二日。

あと十一日。

カレンダーの数字は、減っていくためにあるように見えた。

ある日、海斗の船に乗せてもらった。

小さな漁船だった。

父親に見つかると怒られると言い、港を離れてから甲板へ上げてくれた。

「酔う?」

「分からない」

「吐くなら海側向いて」

「乗せる前に言ってよ」

エンジン音を響かせ、船は沖へ進んだ。

島が少しずつ小さくなった。

陸から見ていた海と、海の上から見る海は別のものだった。

どこまでも青く、何もなかった。

逃げ場がないほど広かった。

「怖い?」

操舵席から海斗が訊いた。

「少し」

「戻る?」

私は首を振った。

「行く」

「どこまで?」

「海斗が行くところまで」

海斗は笑った。

船は島の裏側にある入り江へ向かった。

切り立った崖に囲まれ、水は透き通っていた。

底の岩が見えた。

私たちは服のまま海へ飛び込んだ。

水中で目を開けると、光が細かく揺れていた。

海斗が少し離れた場所で、私に手を伸ばした。

私はその手を取った。

水の中では言葉が使えない。

それでも、彼が笑っているのが分かった。

船へ戻り、濡れたまま甲板に寝転んだ。

太陽が眩しくて、目を閉じた。

「東京って、どんなところ?」

海斗が訊いた。

「人が多い」

「ほかは?」

「電車がすぐ来る」

「便利だね」

「でも、いつも遅れそうになる」

「すぐ来るのに?」

「みんな、もっと早く来てほしいと思ってるから」

「変なの」

「島より店が多い」

「何でも買える?」

「だいたい」

「海は?」

「あるけど、こことは違う」

「人が多い?」

「うん」

「じゃあ、海じゃないな」

私は笑った。

目を閉じたまま、訊いた。

「海斗は、島を出たいと思ったことないの?」

「あるよ」

意外な答えだった。

「あるんだ」

「美波が住んでる場所、見てみたい」

胸が熱くなった。

「来ればいいじゃん」

「船あるから」

「一日くらい休めないの?」

「魚は俺が休んでも来るから」

「じゃあ、いつ来るの」

「冬かな」

「本当に?」

「行くよ」

私はその言葉を信じた。

予定を確認しなかった。

旅費はどうするのか。

父親の許可は取れるのか。

どこへ泊まるのか。

現実的な問題は、何一つ考えなかった。

海斗が行くと言った。

だから来る。

それで十分だった。

「冬になったら、東京を案内する」

「どこ?」

「考えておく」

「海ある?」

「島の人は海しか興味ないの?」

「美波がいれば、どこでもいい」

海斗は恥ずかしそうに言った。

私は笑いながら、彼の腕を叩いた。

けれど本当は、泣きそうなくらい嬉しかった。

人の言葉を信じることに、理由はいらなかった。

好きな人が、自分と一緒ならどこでもいいと言った。

私はそれを、そのまま胸の中にしまった。

疑わなかった。

壊れる可能性を考えなかった。

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CHAPTER 06

台風

夏休みが終わる三日前、台風が来た。

朝から雨が降り、午後には船がすべて港へ戻った。

おばあちゃんの家の雨戸は、風が吹くたび大きな音を立てた。

海斗とは会えなかった。

島へ来てから初めて、一日中会わなかった。

私は落ち着かなかった。

窓から外を見た。

時計を見た。

携帯電話の電源を入れた。

東京の友人たちから、たくさんのメッセージが届いていた。

――新学期、来られそう?

――クラス替えないから安心して。

――先生が、一度連絡ほしいって。

私は画面を閉じた。

海斗と連絡を取る方法はなかった。

彼の家の場所は知っていたが、外へ出られる天気ではない。

何かあったのではないか。

船が事故に遭ったのではないか。

私の知らないところで、彼がいなくなるのではないか。

初めて、不安が身体を満たした。

信じているだけでは、どうにもならない夜があることを知った。

翌朝、台風は島を抜けていた。

道路には枝や看板が落ち、海はまだ荒れていた。

私は朝食も食べず、海斗の家へ向かった。

坂道を走った。

サンダルが何度も脱げそうになった。

息が切れた。

海斗の家の前には、壊れた漁具が積まれていた。

庭で海斗が網を片付けていた。

私を見ると、目を丸くした。

「美波?」

私は何も言えず、彼の前まで走った。

無事だった。

当たり前のように、そこにいた。

安心した瞬間、腹が立った。

「どうして連絡しなかったの」

海斗は困った顔をした。

「連絡先知らない」

「電話あるでしょ」

「番号知らない」

「おばあちゃんの家にかければいいじゃん」

「お花さんの番号も知らない」

「聞けばよかったじゃん」

「誰に?」

言い返せなかった。

私たちは、お互いの連絡先さえ知らなかった。

会いたければ会いに行けばいい。

それで十分だと思っていた。

けれど、会いに行けない日がある。

それだけで、私たちの関係は途切れてしまう。

私は初めて、その危うさに気づいた。

「心配した」

声が震えた。

海斗は網を置いた。

「ごめん」

「船、出てたから」

「昨日の朝には戻った」

「知らないから」

「うん」

「何かあったかと思った」

海斗は濡れた手を服で拭き、私の頭に触れた。

「大丈夫」

その一言で、力が抜けた。

私は泣いた。

海斗の胸に額をつけ、子どものように泣いた。

彼は何も言わず、私の背中を撫でた。

「東京に戻ったら」

泣きながら、私は言った。

「電話する」

「うん」

「手紙も書く」

「うん」

「毎日じゃなくても、ちゃんと連絡する」

「俺も」

「忘れないで」

「忘れないよ」

「絶対?」

「絶対」

今の私は、絶対という言葉を信じない。

人の気持ちは変わる。

環境が変われば、約束は守れなくなる。

悪意がなくても、誰かを忘れてしまうことはある。

未来を知らない人間が、永遠を約束することなどできない。

けれど、あの日の私は信じた。

海斗が絶対と言った。

だから絶対だった。

それは愚かさではなく、強さだったのだと、今は思う。

疑うことで傷を避けるのではなく。

傷つくかもしれなくても、目の前の言葉を受け取る強さ。

私は確かに、あの夏だけ、その強さを持っていた。

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CHAPTER 07

届かなかった手紙

島を出る日、海斗は港へ来なかった。

朝、家を出る前に、防波堤へ行った。

いつもの場所にもいなかった。

商店の前にも。

自動販売機の横にも。

船着き場にもいなかった。

出航時間が近づき、母に急かされた。

「誰か待ってるの?」

「別に」

「船、乗り遅れるよ」

私は何度も港の入口を見た。

海斗は来なかった。

船が岸を離れた。

おばあちゃんが、桟橋で手を振っていた。

その横に、海斗の姿はなかった。

私は船室へ入らず、甲板に立ち続けた。

島が遠ざかる。

家も、港も、山も、小さくなる。

最後まで、海斗は現れなかった。

裏切られたと思った。

絶対と言ったのに。

冬に東京へ来ると言ったのに。

忘れないと言ったのに。

最後の日にさえ、会いに来なかった。

涙が出た。

風が強く、すぐに乾いた。

本土へ着き、電車に乗った。

スマートフォンの電源を入れると、通知が一斉に届いた。

友人たちのメッセージ。

学校からの連絡。

母が送った乗り換え案内。

画面は世界とつながっていた。

それなのに、海斗とはつながっていなかった。

東京へ戻り、学校へ行った。

友人たちは優しかった。

休んでいた理由を詳しく訊かず、以前と同じように話しかけてくれた。

私は少しずつ日常へ戻った。

朝の電車。

授業。

昼休み。

放課後のカフェ。

受験勉強。

島の夏は、遠い夢のようになった。

最初の一週間、毎日おばあちゃんの家へ電話した。

海斗から連絡はないかと訊いた。

なかった。

海斗の家へ電話をかけることも考えた。

番号案内で調べれば分かったかもしれない。

けれど、できなかった。

最後の日に来なかったことが、答えだと思った。

好きではなくなったのかもしれない。

別れを言うのが面倒だったのかもしれない。

島にいる間だけの恋だったのかもしれない。

考え始めると、優しかった言葉まで疑わしくなった。

美波がいればどこでもいい。

冬に東京へ行く。

忘れない。

全部、その場で私を喜ばせるために言っただけだったのではないか。

人の言葉には裏がある。

私は東京で、それを学び直した。

好きだからこそ、信じすぎてはいけない。

期待すれば傷つく。

自分の気持ちを先に見せてはいけない。

相手がどれくらい自分を必要としているか確かめながら、同じ分だけ返す。

それが大人になることだと思った。

十一月、おばあちゃんから手紙が届いた。

中には、海斗から預かったという小さな封筒が入っていた。

手紙には、たった数行しか書かれていなかった。

――港へ行けなくてごめん。

――父さんが船で怪我をして、病院まで付き添っていた。

――出航には間に合わなかった。

――冬に必ず会いに行く。

――美波が好きです。

私は何度も読んだ。

疑ったことが恥ずかしかった。

海斗は来なかったのではない。

来られなかった。

好きではなくなったのではない。

今も好きだと書いている。

私はすぐに返事を書いた。

責めてごめん。

私も好き。

冬を待っている。

手紙をポストへ入れた。

数週間後、返事が届いた。

海斗の父親は怪我の影響で、長く船に乗れなくなった。

冬に東京へ行く約束は守れそうにない。

その代わり、春には行くと書いてあった。

私は信じた。

春を待った。

けれど、海斗は来なかった。

四月に送った手紙は、宛先不明で戻ってきた。

おばあちゃんへ電話すると、海斗の家族は島を出たという。

父親が漁を続けられなくなり、親戚を頼って九州へ移ったらしい。

引っ越し先は、おばあちゃんも知らなかった。

私は手紙を書けなくなった。

海斗も、私の東京の住所を知っていたはずだった。

それでも、手紙は届かなかった。

夏が来た。

私は受験生になった。

翌年、大学生になった。

島へ行こうと思えば行けた。

海斗の親戚や友人に訊けば、居場所を調べられたかもしれない。

けれど私は行かなかった。

探して、もし彼が私を忘れていたら。

別の誰かを好きになっていたら。

手紙を書かなかったことに、特別な理由などなかったら。

そう考えると、動けなかった。

傷つかないための準備だけが、上手くなっていた。

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CHAPTER 08

十五年後

十五年ぶりに島へ戻ったのは、八月の終わりだった。

おばあちゃんの家を片付けるため、有給休暇を取った。

本土から島へ向かう船は、新しいものに変わっていた。

船室には冷房が効き、無料の無線通信まで使えた。

窓の外には、記憶と同じ青い海があった。

けれど島へ着くと、変わったもののほうが多かった。

港は整備され、観光案内所ができていた。

唯一の信号は新しくなり、古い商店は閉まっていた。

代わりに、カフェと土産物店ができていた。

おばあちゃんの家は、時間の中に取り残されていた。

玄関を開けると、湿った畳の匂いがした。

台所には古い調味料が残っていた。

柱には、子どものころ私の身長を測った線があった。

片付けを始めたが、何を捨てるべきか分からなかった。

食器。

裁縫箱。

古い写真。

おばあちゃんが使っていたエプロン。

物には記憶が染み込んでいる。

けれど記憶を残すために、すべての物を持ち続けることはできない。

夕方、作業をやめて外へ出た。

海沿いを歩いた。

蝉の声。

肌に残る湿気。

傾いた太陽。

十五年前と同じ夏が、形だけを変えて続いていた。

自動販売機も新しいものになっていた。

私はサイダーを買った。

瓶ではなく、ペットボトルだった。

防波堤へ行くと、一人の男性が釣りをしていた。

日に焼けた腕。

首に巻いたタオル。

白いTシャツ。

一瞬、海斗だと思った。

そんなはずはない。

十五年も経っている。

海斗も、もう三十三歳か三十四歳だ。

目の前の男性は、背中だけでは年齢が分からなかった。

私は少し離れた場所に座った。

海を見た。

太陽が水面の上に長い道を作っていた。

「釣れますか」

なぜか、声をかけた。

男性は振り返った。

知らない顔だった。

「今日は全然ですね」

笑い方も、海斗とは違った。

私は少し安心し、少し残念だった。

男性は釣り道具を片付け、先に帰った。

一人になった防波堤で、私はサイダーを飲んだ。

冷たすぎる飲み物が、喉を痛くした。

好きな人と歩いた帰り道。

何を話したかは覚えていない。

ただ、隣にいたこと。

風が吹いたこと。

夕日が横顔を照らしたこと。

人は恋の内容より、恋をしていたときの気温や光や匂いを覚えている。

誰かがそんなことを言っていた。

私はずっと、海斗を忘れられないのだと思っていた。

けれど、本当に忘れられなかったのは、彼だけではないのかもしれない。

私は、ほとんどを捨てることにした。

食器も。

古い家具も。

おばあちゃんの服も。

全部持ち帰ることはできない。

思い出は、物を残した分だけ残るわけではない。

最後に、押し入れの奥から小さな缶を見つけた。

蓋には、色褪せた花の絵が描かれていた。

中には切手や、古い鍵や、使いかけの鉛筆が入っていた。

その底に、一通の封筒があった。

私の名前が書かれていた。

海斗の字だった。

手が震えた。

消印は十五年前の九月。

宛先は、おばあちゃんの家になっていた。

なぜ私の東京の住所へ送らなかったのか。

封を開けた。

便箋は一枚だけだった。

――美波へ。

――東京の住所を書いた紙を、引っ越しのときになくしました。

――お花さんに送れば、美波へ届けてくれると思いました。

――九州へ来ました。

――父さんは船を降りました。

――俺も今は別の仕事をしています。

――東京へ行く約束を守れなくてごめん。

――美波に会いたいです。

――電話番号を書きます。

――いつでも電話してください。

紙の下には、数字が並んでいた。

私はその場に座り込んだ。

十五年前、海斗は手紙を書いていた。

私に会いたいと。

電話してほしいと。

おばあちゃんは、その手紙を渡し忘れたのだろう。

あるいは、私が島へ戻ったときに渡そうと思ったのかもしれない。

誰も悪くなかった。

手紙が一通、届かなかった。

それだけだった。

たったそれだけのことで、一つの恋が終わった。

私は泣かなかった。

悲しみは、時間が経ちすぎると涙にならない。

ただ胸の中に、音のない穴を開ける。

電話番号をスマートフォンに入力した。

もちろん、十五年前の番号だった。

つながるはずがない。

それでも、最後の一桁を押す指が止まった。

今、海斗はどこにいるのだろう。

結婚しているかもしれない。

子どもがいるかもしれない。

漁師へ戻ったかもしれない。

島のことなど忘れ、まったく別の人生を生きているかもしれない。

電話がつながったとして、私は何を言うのだろう。

手紙を十五年後に読みました。

今も私を好きですか。

そんなことを訊くつもりはなかった。

私は彼に会いたいのではない。

少なくとも、今の彼の人生を乱してまで会いたいわけではない。

あの夏は、あの夏の中で完結している。

海斗が私を好きだった。

私も海斗を好きだった。

最後の手紙は、届かなかった。

けれど気持ちは、どちらも嘘ではなかった。

それが分かっただけで、十分だった。

私は番号を消した。

手紙だけを鞄にしまった。

午後、港へ恋人が迎えに来た。

船から降りてきた彼は、汗をかきながら大きな荷物を持っていた。

「本当に来たの」

私が言うと、彼は笑った。

「来てって言ったじゃん」

「仕事は?」

「休んだ」

「無理しなくてよかったのに」

言ってから、私は首を振った。

「違う」

「何が?」

「来てくれて嬉しい」

彼は少し驚いた顔をした。

「うん」

「すごく会いたかった」

言葉にすると、恥ずかしかった。

でも、言ってしまえば、それだけだった。

彼は荷物を地面へ置き、私の手を取った。

「俺も」

十五年前とは違う手だった。

海の匂いもしなかった。

日に焼けてもいなかった。

けれど、その手の温度を私は知っていた。

今、目の前にいる人の手だった。

私たちは港から、おばあちゃんの家まで歩いた。

道の途中で、海が見えた。

「綺麗だね」

彼が言った。

「うん」

「また来たい?」

私は少し考えた。

「たぶん」

「たぶん?」

「同じ夏は、もう来ないから」

彼は意味が分からないようだった。

それでよかった。

分かってもらう必要のない記憶もある。

夕方、家を出た。

鍵を不動産会社へ渡した。

もう二度と入れないかもしれない古い家を振り返った。

台所に立つおばあちゃん。

扇風機の音。

蝉の声。

浴衣の帯の苦しさ。

サイダーの泡。

海斗の小指。

全部、家の中に残っている気がした。

けれど、本当は私の中にある。

家がなくなっても。

島へ来なくなっても。

忘れてしまう部分が増えても。

なくならない。

港へ向かう途中、海辺の自動販売機で飲み物を買った。

恋人は缶コーヒー。

私はサイダー。

「それ、好きだっけ」

彼が訊いた。

「昔、好きだった」

「今は?」

私は一口飲んだ。

甘く、冷たかった。

十五年前と同じ味かどうかは分からなかった。

「今も好き」

私は答えた。

船が島を離れた。

夕日が海の上に沈んでいく。

私は甲板に立ち、遠ざかる島を見た。

あの夏の海斗は、今も防波堤にいる。

白いTシャツを着て。

濡れた髪のまま。

私の手を握っている。

もちろん、それは記憶だ。

十五年前の少年はもういない。

私も、あの頃の少女ではない。

同じ海へ行っても、同じ光は二度と戻らない。

人の言葉を疑うことも覚えた。

期待しすぎないことも。

傷つく前に距離を取ることも。

もう、何も知らなかった自分には戻れない。

それでも。

一度でも誰かをまっすぐに好きになった人は、その純粋さを完全には失わないのだと思う。

頭の四隅に。

胸の奥に。

普段は触れない場所に。

信じることができた自分が、今もいる。

だから時々、海の匂いがしたとき。

夕方の風が、少し涼しくなったとき。

私は昔好きだった人ではなく、あの人を疑わずに好きだった夏を思い出す。

一夏の恋は終わった。

けれど、失敗したわけではない。

永遠に続かなかったからといって、偽物だったわけでもない。

私たちは確かに好きだった。

会いたいと思った。

手をつないだ。

同じ花火を見た。

未来を知らないまま、未来を信じた。

その時間は、私の人生から消えない。

恋人が隣へ来た。

「何考えてるの」

「昔のこと」

「昔の恋?」

冗談のように訊かれた。

私は一瞬、迷った。

以前の私なら、否定したかもしれない。

余計な心配をかけたくない。

嫉妬されたくない。

過去の人をまだ好きだと思われたくない。

けれど私は、彼の言葉にない意味を探すのをやめた。

「うん」

正直に答えた。

彼は少し驚いたが、怒らなかった。

「どんな人?」

「島の人」

「会いたい?」

私は遠ざかる島を見た。

もう輪郭が薄くなっていた。

「会わなくていい」

「そうなんだ」

「でも、大切な人だった」

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